銀泉仙境異聞 桐華清祀夕闇が迫る頃になっても、宴の喧騒は途絶えることがなかった。みなが大いに飲み、食べ、歌う。 やがて紺色の空に細かい銀砂の輝きがちりばめられ、その中をふくよかな金の円盤がゆっくりと昇ってきた。今宵は満月をわずかに過ぎた十六夜だ。晴朗と吹く風が、酔いに火照る頬を冷ましていく。 「気持ちのいい風ね・・・」 麗麗はそぞろ歩きながら、うっとりと目を閉じた。にぎやかな崋山の女仙たちとのお喋りは楽しいが、つい酒を過ごしてしまった。またねと手を振って、いつの間にか姿を消していた秋淋を探して歩く。 「秋淋ってば、まだぎこちないわね。お喋り、苦手なのかしら？」 あちらこちらで知り合いに出会い、そのたびに立ち止まっては話に花を咲かせるせいで、なかなか歩みは進まない。だが、そのうちに聞き覚えのある声に気付いて立ち止まった。 「あ、麗麗さんだ。麗麗さーん！ こっちです、こっち！」 向こうも麗麗に気付いたようで、陽気に手を振るのは燐朋だった。周りには秋淋や愛蓮、準の姿もある。凜鈴も近くでくるくると給仕に立ち働き、童子としての仕事をこなしていた。 「なぁに、みんなしてあたしを仲間はずれにしてたの？」 麗麗がからかうように言いながら輪に入ると、時をおかずに慶が通りすがった。 「おや、みなさんおそろいですか」 「慶さん！ 見てましたよ、惜しかったですね、五回戦！」 「もう少しだったんですけどね。まぁ、来年を見ていて下さい」 燐朋から親しげに声をかけられ、慶はさほどの落胆を見せずに笑みを浮かべた。優勝こそ逃したものの、慶は師から五行の昇段を告げられたのだ。着実に修行の成果は上がっている。 「そういえば、あの時、何か術を使いかけてやめませんでしたか？」 燐朋と麗麗の間に座った慶は、ふと三回戦で燐朋が見せた不思議な振る舞いを思い出して尋ねた。すると燐朋は事もなげに言った。 「〈封声〉を使おうとしたんです。きみの術の発動を止めようと」 「禁呪も使えたんですか・・・！」 慶は驚いて目の前の少年を見つめた。あの時に一瞬でも声を封じられていたら、緋凰斬の集中を保てたかどうかはわからない。目の前の杯に手を伸ばして口を湿し、慶は問いを重ねた。 「どうして使わなかったんです？」 「もう術は発動していて、すでに遅かったですし、それに・・・」 「それに？」 「やっぱり、必殺技の名前はちゃんと叫びたいでしょう？」 にっこりと言う燐朋に、慶はぽかんとしたあと、爆笑した。 「あはははっ、あなたわかってますね！」 ばんばんと燐朋の背中を叩く。 「あいたっ・・・勘弁して下さいよ。きみにやられた傷、完全に治ったわけじゃないんですから」 「そーんなこと」 よけようとする燐朋に慶はかまわず抱きつき、その襟に手をかけた。 「こんなの着こんでるからですよぅ。ほら脱いで脱いで」 「ええぇ〜っっっ？？」 燐朋が、必死に身をよじって逃げようとする。周囲の面々も、何事かと目を丸くした。 「ああ、慶に酒を飲ませてしまったね」 その様子に目を留めたのか、康厳華がひょいと顔を覗かせた。 「慶は絡み上戸なのだよ。周りの人間すべてを脱がそうとする。酔い潰してしまうか何かしないと、被害は広がる一方だ。気をつけたほうがいい」 淡々と告げるだけ告げ、小さく笑みを閃かせて厳華はそのまま立ち去った。 「厳華さま・・・！ そんな、誰か助けて・・・！」 燐朋は半泣きだが、自分に矛先が向くことを恐れて誰も近付かない。準は弟弟子の受難に眉をひそめ、秋淋に囁いた。 「秋淋、慶を眠らせてしまうのはどうだい。酔い潰すよりも身体に負担はかからないのではないかな」 「ええ、そうね・・・」 秋淋は頷き、小さな筒を取り出した。 「ごめんなさい、慶さん」 謝りながら、睡眠丹を鼻先でさっと一振りする。一息吸い込んだ慶の目がとろんとなった。そして身体からみるみる力が抜けて、そのまま燐朋にもたれかかるようにして眠ってしまった。 「やれやれ、人騒がせだね」 燐朋と二人で慶を並べた椅子に寝かせ、準は苦笑した。 「何を笑っとるか！」 そこへ突如響いた大音声に、一同は揃って飛び上がった。目を向ければ、そこに腕組みをして立っていたのは東王父だった。 「こんなところで寛いどる場合か、一勝もできず、この洞府の恥さらしが！」 「うわわ、師匠お手柔らかに・・・うぐっ」 ぐいと準の首根っこを掴む東王父におろおろとする燐朋もまた、襟首を掴まれてうめいた。 「お前も二勝程度で満足しとるのか！ こっちへ来いっ、二人とも鍛えなおしてくれるわ！」 堂々たる偉丈夫が、片手に一人ずつをぶらさげ、問答無用で引きずっていく。遠ざかる三人を呆然と見送り、秋淋は不安げに呟いた。 「大丈夫かしら・・・」 「なぁに、あの二人なら問題ないって」 横から不意に答えが返り、秋淋は驚いて振り向いた。そこにいたのは、見た目は秋淋と同じほどの青年道士だった。立派な体躯と頬に走る傷が、武闘派であることを示している。だが、顔に浮かぶ表情は屈託がなく、率直で陽気な性格を表していた。 「どうせ飲み比べだ。準ならいくら飲んでもどうってことないし、燐朋は立ち回りが上手いからな。限界超える前に逃げるだろうさ」 「あの・・・」 「おっと、すまん。自己紹介がまだだったな」 戸惑う秋淋に、青年は林旋夏(りん・せんか)と名乗った。その名前には聞き覚えがある。準が幼い頃に出会った仙人だったはずだ。 「あいつはちっこい頃におれと会っちまったせいで、仙人以外の生き方を思いつかないようなところがあったんだが、このところ少し変わってきてる」 旋夏は人好きのする笑顔を浮かべた。 「それはおまえさんのおかげだって聞いたんでな、一度ちゃんと会ってみたかったんだよ」 「私、に、ですか・・・？」 「ああ」 まだ少し戸惑ったままの秋淋に大きく頷き、旋夏は真顔になった。 「あいつをよろしく頼む。あいつの速度に合わせるのはしんどいかもしれんが、どうか見捨てないでやってくれ」 「そんな、見捨てるだなんて・・・私のほうこそ・・・」 秋淋は控えめに首を振る。それを見た旋夏は、再び笑顔になった。 「無用の心配だったみたいだな。安心した。・・・ところで、一つ質問なんだが」 ここで旋夏の笑みが、少しいたずらっぽく変わった。 「あいつの、どこが良かったんだ？」 「えっ、ど、どこって・・・っ」 慌てふためく秋淋に、麗麗が身を乗り出した。 「あ、それ、あたしも知りたーい」 「あたくしも、ぜひとも伺いたいですわ。秋淋は、あんな朴念仁にはもったいないですのに」 愛蓮まで便乗して秋淋につめ寄ってくる。 「えっと、その・・・」 興味津々の三対の瞳に見つめられ、秋淋は視線をさまよわせた。 「そ、そうだわ、私、師匠のところに行かなくちゃ」 慌てたように立ち上がり、旋夏にぺこりと頭を下げて早足で歩き出す。 「こらー、逃げるなー！」 麗麗が後を追っていくのを見て、旋夏は苦笑した。 「まずいこと聞いたか？」 「かまいませんわ。秋淋は堂々とのろけるくらいのことをすればいいのにと、あたくし常々思っておりますの」 経験を積むべきなのだと、愛蓮はあっさりと言って杯を傾ける。 「ははっ、なるほどな。準もいい仲間を持ったもんだ」 旋夏は声を上げて笑い、じゃあと手を上げて立ち去った。入れ替わるようにその場に現れたのは、高く結い上げた髪に金銀を散らし、いくつものかんざしを飾った華やかな女仙だった。大勢の供を引き連れ歩く様は、それだけで場の空気を変えるほどの優美さに満ちていた。内から光を発するがごとき美貌の持ち主は、女仙の頂点に立つ西王母だ。 「あら、師匠ではございませんの。辺りかまわず口説くのをやめて、王母様の取り巻きに変じましたの？」 「取り巻きなどと品のないことを言ってはだめだよ、愛蓮。西王母様に失礼だろう？」 西王母を囲む人々の中にいた韓湘子は、愛蓮に声をかけられて立ち止まった。すると、なぜか西王母も足を止めて愛蓮のほうを振り向いた。 「愛蓮とな。では、そちが周愛蓮なのじゃな」 なぜか嬉しげな声の西王母に、愛蓮は不思議に思いながらも礼を執る。 「今日はあちこちでそちの噂を聞いたものじゃ。霹靂娘々とはどのような女仙かと思うておったが・・・噂以上の華やかさよの」 「まぁ！」 愛蓮は瞳を輝かせた。 「あたくしの美貌は崋山の主が聞き及ぶまでになりましたのね！ まっ、それも当然のことですけれど。オーッホッホッホッ」 「これは・・・ほほ」 喉をそらして笑う愛蓮に、西王母は優雅に微笑んだ。 「頼もしい道士じゃの。のう、湘子」 「ああ、僕の自慢の弟子だよ」 ちらりと目を向けられた韓真人が微笑んで頷くと、愛蓮は笑いを収めて釘を刺した。 「おだてても、先刻の約束は無しにしませんわよ？」 「おや、それは残念だな」 微笑みを消さないまま、韓真人が首をかしげる。すると西王母は少し高く笑った。 「ほほ・・・そちが手玉に取られておるの。愛蓮や、これからも湘子のやんちゃを見張っておくれ」 「もちろんですわ」 愛蓮が胸を張ったところに、ややせわしない足取りで二人連れの青年姿の仙人がやってきて西王母に声をかけた。一人は南斗星君(なんとせいくん)、もう一人は佑聖真君(ゆうせいしんくん)だった。どちらも北岳・恒山の神仙だ。 「王母、老君がお呼びでいらっしゃいます。宮殿のほうへ・・・」 「もうそんな時間であったかの」 佑聖真君の呼びかけに、西王母はゆったりと扇をうちあおいだ。 「もう少しそちと話したかったのじゃが、仕方あるまいの。では愛蓮、いずれわらわの宮殿へも来ておくれ」 魅惑的な笑みを残し、西王母は佑聖真君と連れ立って去っていった。 「きみ・・・凜鈴童子、だったよね？」 その場に残った南斗星君の言葉に、にぎやかなやり取りを嬉しげに眺めながら給仕をしていた凜鈴は、びっくりしていつの間にか側に来ていた青年を見上げた。 「采和から聞いたよ。先だっての邪仙騒ぎでは、ずいぶん無茶をしたみたいだね」 「いえ、あれは・・・っ」 心配げな声に、凜鈴は慌てて身を乗り出す。それを見た南斗星君は「安心して」と言うように手のひらを向けて押しとどめた。 「事情はわかってる。結果として邪仙の脅威を取り除けたこともね。責めようというんじゃないんだ」 「では、いったい・・・」 「うん。他に選択の余地がなかったんだよね。わかっているよ。だけどあの時は、土地神の通力が残っていたからこそ、きみの濁業を薄れさせることが出来た。それがどれだけ奇跡的な事かを、きちんと知っておいて欲しいんだ」 本人も類まれな召鬼の力を持つ南斗星君は、真摯な表情で凜鈴を見つめた。童子にではなく、同じ召鬼の術者に対して真剣な話をしているという意思が伝わり、凜鈴は居住まいを正した。 「わたくしも、土地神さまのお力で助かったことは、一時たりとも忘れたことはございません。この身に濁業が刻まれた、あの恐ろしさも、一生忘れないことでしょう」 「そうか。うん、それならいいんだ・・・でも、一つだけ。今後もし同じようなことがあっても、絶対に繰り返さないと約束してくれないかな」 「はい」 凜鈴は、わずかもためらうことなく頷いた。 「決して」 「うん」 小柄な凜鈴に視線をあわせるように膝をつき、南斗星君は凜鈴の手を取った。 「だけどあの時、きみたちの力で大きな災厄が抑えられたことは紛れもない事実だ。命の危険を冒して人々を守ってくれたきみたちを、おれは誇りに思うよ」 「藍さまも・・・」 「うん？」 「藍さまも、そう思って下さるでしょうか・・・」 細い声で呟く凜鈴に、南斗星君はふわりと微笑んだ。 「もちろんだよ。知っているかい？ 彼女がきみのことを話すときは、いつもとても嬉しそうだよ」 ぱぁっと凜鈴の表情が明るくなる。その顔を照らすように、夜空に光の華が開いた。 「あぁ、始まったね」 南斗星君も空を見上げた。 「王母さまの花火だ・・・」 準は、酔いつぶれた兄弟子たちの間で。 秋淋は麗麗の追求を逃れることも忘れて。 慶は眠りから覚め、かすかな頭の痛みをこらえつつ。 愛蓮はうっすらと満足げな酔いを見せる目元で。 そして凜鈴は、大切な人の面影を映すように。 西王母がその術の限りで編み上げた、幻とは思えないほどのきらびやかさで満天を覆いつくす光の乱舞を、飽くことなく見上げ続けた。 （閉幕）
あかね 拝
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