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石や砂礫が逆巻く濁流の中、ものともせずに下っていく白い蛇の姿があった。 「なんともおそれを知らぬ道士もいたものよ」 呟きは泡となり、あっという間に彼方へと流れていく。白蛇は身をくねらせ、上流へ向けて口を開いた。 「我輩の力を使うからには、相応の成果を挙げて当然ぞ」 流れに負けることなく、白蛇の大きく開いた口から衝撃がほとばしる。 「ひよっこ道士よ、これは貸しにつけておくぞ！」 衝撃は激流を貫き、空へと吹き上げた。 邑に居所をなくした娘のことで考えに沈んでいた紅秋淋(こう・しゅうりん)は、切れた雲の隙間から差し込む夕陽の赤い光に、あっと叫んだ。 「いけない、麗麗と約束したんだわ。すぐに追いかけるって」 「ああ、下流の首尾のことですわね？」 首をかしげた周愛蓮(しゅう・あいれん)は、すぐに思い当たって頷いた。 「それはあたくしも気になっておりましたの。もし邪仙がいるとしたら、一言言ってやらねば気がすみませんわ。苦しむ人を利用して、挙句の果てに使い捨てるなど、たとえ神々が許してもあたくしが許しませんことよ」 語気荒く言って、乗騎の畢方(ひっぽう)を呼び寄せる。目の前に下りてきた青い鶴を見て、邑の娘は目を丸くした。 「あんたたち、本当に仙人だったんだ・・・」 「いまさら何を言っていますの」 愛蓮は呆れたような目を向けた。 「あたくしが金鞭(きんべん)でいかずちを放ったのを見ていたでしょうに」 「だって、あん時は必死だったんだもん。そんなの気付くわけないよ」 「まぁ、ずいぶんですこと」 肩をすくめた愛蓮は、ひらりと青鶴の彩虹(さいこう)に飛び乗った。 「あたくしは一足先に参りますわね」 「ええ。私も出来るだけ急ぐけれど」 秋淋が頷くのを確かめて、愛蓮は彩虹に合図をする。乗騎はすっと空へと舞い上がり、川の下流へ進路を取った。 「あ、ちょっと、あたしはいったいどうしたら・・・！」 「大丈夫。悪いようにはしないわ。信じて」 慌てる娘に、秋淋は優しく声をかけた。 「しばらくの間は辛抱していてちょうだい。仲間を助けたら、すぐに戻ってくるから」 「・・・仲間・・・」 娘は秋淋の言葉に思案顔になった。そして秋淋の顔をまじまじと見つめる。 「な、なに・・・？」 「仲間って、大切な人？」 たじろぐ秋淋に、娘が問いかけた。秋淋は少し迷ってから頷いた。 「ええ」 「・・・そっか」 何を思ったのか、娘は笑顔になった。 「うん。あたしのことは気にしなくていいよ。あの人と顔を合わせるのは気まずいけど、自業自得だもんね」 いきなり吹っ切れたように晴れ晴れと言う娘に、秋淋は不安になる。 「必ず戻ってくるから、お願い、早まったことだけはしないで」 「わかってるって。ほら、早く行きなよ。大切な人が待ってるんだろ？」 「え、ええ・・・」 後ろ髪を引かれる思いで何度も振り返りながら、秋淋は山道を下りていく。その姿が見えなくなると、娘は急に崩れるようにしてしゃがみこんだ。 「いいな。大切な人を助けに行くんだって・・・大好きな人を傷つけることしか出来なかったあたしとぜんぜん違う・・・いいな・・・」 うずくまって膝の間に顔を埋め、娘はまたひとしきり泣いた。 川の流れが早くなり、どんどん濁りを増していく様子を見て、愛蓮は眉をひそめた。 「やはり、ずいぶんと荒れていますわね」 ぐっと高度を落とし、川面すれすれを飛びながら、腰につけていた袋を外した。 「さあ、もう一働きしていただきますわよ」 『我輩に何をさせようというのだ』 もぞもぞと袋の中で身じろぐ白い蛇は、川の神たる竜神・轟汪(ごうおう)の分身だ。鎌首をもたげた白蛇に、愛蓮は澄まして言った。 「もちろん、水かさを増した責任を取っていただくのですわ。もう具合もよくなられたようですし、神の力をお持ちの轟汪様なら、造作もないことでございましょう？」 『いかさま。難しいことではない。だが、みだりに力を揮えば天の意をかき乱し、歪みを増大させかねんのだ。ゆえに我輩らは自制を求められておる』 轟汪は舌を震わせ、どことなく渋い顔をしているように見える。しかし愛蓮は大輪の華のような笑みを向けた。 「いまさら何をおっしゃいますの。すでに天意は歪められておりますわ。それを正すのも天のしもべの務めではございませんか」 笑顔のまま、愛蓮は白蛇を袋から取り出した。 「お願いいたしましたわよ、川の神よ」 『こら、何をする・・・！』 慌てて身をよじる轟汪を、荒れ狂う激流へと放つ。濁った水に飲まれる寸前、白い蛇がくるりと身体をひねり、波間に潜るのが見えた。 「さて、邪仙との対決はどうなりましたかしら」 彼方を見るように手びさしを作る。 「急ぎますわよ、彩虹」 忠実な乗騎の鶴は、一声鳴いて速度を上げた。 轟くような激しい流れが、土手を揺るがしている。だが、自分の身体が揺れるのはそのせいなのか、恐ろしさに震えているからなのか、凜鈴童子(りんりんどうじ)にはわからなかった。 目の前には毒蜂に襲われて倒れ伏した忠麗麗(ちゅう・れいれい)がいる。苦しげな息遣いはどんどん遅くなり、今にも途切れそうだった。 「なんという酷いことを・・・」 身体の奥から湧き上がる、重くどろどろとした感情は、凜鈴は初めて感じるものだ。それは怒りと呼ばれるものかもしれなかった。 「面白いものを持っているな」 攻撃を防がれた崇散弧(すう・さんこ)は、蜈蜂袋(ごほうたい)の蜂をすべて吸い込んだ四海瓶(しかいべい)を見て言った。 「我の宝貝とどちらが上か、試してみぬか」 散弧の右手が、蜈蜂袋を持ち上げる。わっと湧き出した蜂に凜鈴が身体をすくめると同時に、炎が舞った。 「その手はもう効きませんよ・・・！」 広範囲に降り注ぐ火の雨が蜂を焼き、散弧が後ろへと下がり距離をとる。五行招来の術で火を呼び寄せた橙紅慶(とうこう・けい)も、その隙を突いて麗麗と凜鈴の元へと移動した。 「麗麗さんは大丈夫ですか」 水しぶきをかぶって濡れていた尾を一振りして滴を払い、慶は気遣わしげに倒れた麗麗を見た。 「だ、いじょうぶ、よ・・・」 荒い息の下で慶を見上げ、麗麗は青ざめたくちびるで薄く微笑んだ。 「すぐに、秋淋が、来て・・・くれるから・・・」 「麗麗さま、喋らないで下さい」 咳き込んで血を吐く麗麗に、凜鈴は悲鳴を上げた。 「このまま全員でやられてしまうより、一人がやられるだけのほうがマシですね。僕が相打ち覚悟で行きますから、麗麗さんのことをお願いしますよ」 「そんな・・・！」 いつになく真剣な面持ちの慶に、凜鈴は大きくかぶりを振った。 「いけません、一人で犠牲になるなどと」 凜鈴は強く言って立ち上がった。 「わたくしも戦います」 怯えに震える足を拳で叩き、凜鈴は真っ直ぐに立った。 「わたくしは、ようやく理解できた気がいたします。童子としてお側にお仕え出来ればそれで幸せだったわたくしを、藍(らん)さまが召鬼の師匠の下へと修行に出されたのは、世界をありのまま見ることをわたくしに教えるためだったのでございますね・・・」 「何を言っている？」 澄んだ高い声が語る言葉に、散弧がいぶかしげな顔をする。だが、凜鈴は答えず天を仰いだ。 「わたくしは・・・いいえ、僕は美しい歌を歌うためにこの世に生まれてきた。誰かを傷つけるような事をするためにこの声があるのではないけれど、このまま祈るだけの僕にどんな価値があるだろう。藍さまは、何もせずにいる僕をどう思われるだろう。僕は、もっと早く気付くべきだったんだ。でも、まだ間に合うかもしれない。だから決めた。僕は、戦う」 凜鈴は散弧をきっと睨みつけた。 「もう許さないぞ。僕だって、鬼(き)を扱うことは出来るんだ。これ以上、誰も傷つけさせない・・・！」 歌声が鬼を呼び寄せる。ゆらゆらと現れた二体の鬼は、凜鈴の周りを漂うように回った。 「さあ、あいつの動きを封じてしまうんだ」 指示を出す凜鈴に、散弧が高く笑った。 「まるで使い方を知らぬと見える！ 僵尸(きょうし)でもないただの鬼風情に、生身の動きが止められるものか！」 あざ笑う散弧に、凜鈴ははっとして目の前に浮く鬼を見た。自分には見え、声も聞こえるがために、物に触れることは出来ない存在だということを失念していた。 「もう良いのか？ ならばこちらから行くぞ」 散弧は、袖から右手でゆらりと剣を引き抜いた。残った僵尸もまた、主の意志に従って三人へと迫る。これもまた宝貝なのだろう。おぞましい黒い刀身が、陽を弾いてぬめるような光を放った。 「あらあら、ひどい有様ですわね」 馥郁とした香りと共に飛来した女仙に、慶と凜鈴はぱっと顔を明るくした。 「愛蓮さま・・・！」 変幻自在の軌道を見せる剣に、二人は隙を見せずにいるので精一杯だった。右腕しか使えない散弧が剣技に長けているとは考えにくく、それも宝貝の能力と思われた。倒れた麗麗と、それをかばう凜鈴、そしてその前で散弧の打ち込みを牽制している慶を一瞥し、愛蓮は顔をしかめた。 「三人もいて、だらしないですわよ」 「面目ありません」 ふわりと彩虹から降りた愛蓮に、慶は申し訳なさそうに頭を下げた。 「正直なところ、手詰まりで。僕も切り札は後もう一枚切れるかどうかというところなので、確実に当てるためにどうするか思案しているのですが」 相打ち覚悟だとしても、まずは動きを止めなくては散弧を仕留めることはできないだろう。それに、盾となる僵尸は、まだあと一体いる。愛蓮の金鞭でも両方の動きを止めるのは難しい。 戦う決意をしながらも力が及ばず、悔しさに歯噛みしていた凜鈴の耳に、不意に声が届いた。 「わしを使いなされ」 生身の声とは違う声。見回すまでもなく、声の主の姿が目に入った。揺れる体は、輪郭がぼやけて暗くなってきている。 「土地神さま・・・？」 「陰気にあてられ、わしの意志が薄れてきておる。このままでは、守るべき土地に祟り為す悪鬼となるじゃろう。お前さんの使鬼となってしまえば、その変質が防げるはずじゃ」 「ですが、川が・・・！」 「心配いらんよ。より尊き神のお力が守って下さっておる」 そう言って微笑む土地神の視線の先で、轟汪の吐いた息が川面を突き抜けて吹き上がる。 「わしを使鬼として、あの僵尸に送り込むのじゃ。あやつの操る鬼を押さえ込めば、動きを止めることはできるはずじゃ」 「それは・・・それでは濁業が貯まってしまいます！」 凜鈴は愕然として叫んだ。死者の肉体に鬼を憑依させるということは、僵尸を作るということに他ならない。それは邪仙の行いであり、術者にも鬼にも濁業が貯まってしまう。 「もはや手段を選んではおれんじゃろう。ここで止めねば、悲しみは広がるばかりじゃ」 土地神は、揺らぐ体を必死で繋ぎとめながら、凜鈴に懇願した。 「お前さんにも苦しい思いをさせるじゃろう。じゃが、それを承知で頼む。この土地を守ってきたわしに、この地を害させんでおくれ」 土地神の決意の固さを感じ、凜鈴は泣きそうになりながらも頷いた。二体の鬼の使役を止め、土地神に対して役鬼の術を発動する。 下級とはいえ神を使役するなど、能力の限界を超えている。しかし凜鈴は血が出るほど唇をかみしめて必死に制御しながら、土地神を僵尸の中へと送り込んだ。 （こらえろ。土地神さまは、僕なんかよりずっとつらいんだ！） 僵尸の中へと入った土地神との繋がりから流れ込んでくる暗く冷たいものに、少しでも気を抜けば魂ごと引っ張られそうになる。魂におぞましい烙印が刻まれていくのを感じて悲鳴を上げそうになるのをこらえ、凜鈴は僵尸を支配することに意識を集中した。 その甲斐あって、まさに慶につかみかかろうとしていた僵尸が、がくりと傾いて動きを止める。 「今ですわ！」 散弧へ向けて真っ直ぐに放たれた金鞭の先を、黒い剣が切り落とす。 慶はすかさず駆け寄ろうとして、足をもつれさせた。 「絶好の機会が・・・！」 疲労で身体がいうことを利かず、片手をついて倒れた慶に、散弧の剣が向けられる。割り込もうとした凜鈴の制御が乱れ、僵尸はでたらめに腕を振り回し始めてしまった。 「慶！」 愛蓮は金鞭を揮うが、短くなった鞭先から出るいかずちには、これまでの勢いがない。にやりとして剣を握りなおした散弧は、次の瞬間、驚愕の表情になった。 「なん、だと・・・」 硬直した手から、剣が滑り落ちる。 愛蓮は、散弧の向こうに人影を見た。川沿いより少し高くなった街道に立つ、小柄な女性の姿だった。 「秋淋・・・？」 見上げた愛蓮は、身体の異変に気付いた。慶も、起き上がろうとするが手足が利かない。 「麻痺丹か・・・！」 憎憎しげに言った散弧が、ぐらりと身体を揺らして膝をつく。土手を駆け下りてきた秋淋は、風の流れから外れていた凜鈴に解毒丹を渡してから、散弧へ向き直った。 「もうやめて。お願い」 悲痛な声で呼びかけながら、静かに歩み寄る。 「何を・・・」 「人を苦しめて傷つけて、そうして得た力で何が出来るというの？」 麻痺したまま身動きできずにいる散弧に近付いた秋淋は、倒れた身体をそっと抱きあげた。 「もうやめましょう。心を入れ替えてくれるのなら、私が出来る限りのことをするわ。煉丹の師として、とても良い人を知っているの。毒ではなく薬を作りましょう。そして誰かを助ける喜びを知ればきっとあなたも」 「黙れ！」 散弧は、自分を抱きしめる腕を振り払おうともがきながら、初めて怒りの目を向けた。そして渾身の力で蜈蜂袋の口を開く。 秋淋はいったんハッと身を引いたが、すぐに口を引き結んで散弧を抱く腕に力を込めた。袋の口から飛び出してくる蜂に、避けるそぶりも見せない。秋淋に群がろうとした蜂は、しかし肌を刺す前に細いいかずちに叩き落された。 「あたくし、正直なところ、貴方は甘すぎだと思いますわ、秋淋」 かろうじて膝立ちになった愛蓮が笑みを浮かべながら言うと、地に落ちた蜈蜂袋が燃え上がった。 「なんの、そこが秋淋さんの魅力ですよ」 必死に腕を伸ばして火行を呼び寄せた慶もまた、笑みを浮かべる。秋淋は二人に感謝の視線を送ると、腕の中の散弧に目を落とした。 「理解されることなど望んではおらぬ。我を貶めるな。我を見くびるな。愚民どもとは違う、我は、我は・・・」 がさついた声で呪詛のように繰り返す散弧の目に憎しみの光が宿り始めたのを見て取り、秋淋は悲しげに目を伏せる。 「やはり、改心してはもらえないのね・・・」 ぽつりと呟き、抱きしめる腕に力を込めた。みしり、と嫌な音がした。 「ぐ・・・あ・・・・！」 ぎしぎしと骨のきしむ音がする。秋淋はここにたどり着く前に、鉄身丹と怪力丹を飲んでいた。強化された腕力は、力任せに、麻痺して動くことの出来ない散弧を抱き潰していく。 「こめんなさい。あなたを止める方法を、他に思いつかなかったの・・・せめて、私自身の手で送ってあげるわ。このまま・・・」 乾いた感触が腕に届き、弱くもがいていた散弧が血を吐いた。その目から光が消えていく。身体から力が抜けると同時に淡い光が散弧を包み、光が消えた後には胴の砕けた一挺の琵琶だけが残されていた。 それは、装飾のない、質素な作りの琵琶だった。白茶けた木の肌は乾き、木目が浮いている。心得のないものにも、価値がないことがわかるだろう。 「これが散弧の正体でしたのね・・・」 ようやく麻痺丹の抜けた愛蓮が、壊れた楽器を抱きかかえて静かに涙を流す秋淋のそばへ歩み寄った。 秋淋の砕いた胴とは別に、左の糸巻きが折れていた。ささくれた折れ口は古く、これが散弧の動かない左腕となっていたことがわかる。 使役していた者が事切れたために、僵尸に入れられていた鬼もまた束縛を失い、肉体を離れていく。その様を見た凜鈴は、ついに堪えきれずに声を上げて泣き出した。常の大人びた様子とはうってかわって、まるで子供のように泣きじゃくる凜鈴に、愛蓮は静かに言った。 「泣いている場合ではございませんわよ、凜鈴。鬼を冥府へと導くのは、ここでは貴方のお役目ですわ」 「でも、でも・・・！」 凜鈴はぼろぼろと涙をこぼしながら愛蓮を見た。命を取り合う本物の戦いの場に身をおいて、その恐ろしさを肌身で感じたことで、凜鈴の中に今までなかった心が芽生え始めていた。戦うことの悲しさと苦しさ、生き延びた安堵、様々な感情が、涙となってあふれ出して止まらない。 「僕は・・・僕がもっと早く、いろいろなことに気づいていれば、こんなことには・・・！」 「もういいのよ、凜鈴」 細くこぼれた声が凜鈴の耳に届く。囁いたのは、頬を濡らしたまま顔を上げない秋淋だった。 「お願い。この人を冥界へ送ってあげて。もう、戦いは終わったのだから」 呟くような言葉に、凜鈴は再び顔をくしゃりと歪め、それから何度も何かを飲み込むようにしてから震える声で歌いだした。弱々しい歌声に、ほろほろと弦が弾かれる音がかぶる。愛蓮の爪弾く柳琴の音だ。 「なんとか、なったのね」 麗麗はだるい体をおして半身を起こした。解毒丹で毒蜂の毒は消えていたが、まだ顔色はよくない。座り込んだまま、目を閉じて凜鈴の歌声に耳を傾けた。 「ああ・・・素敵な歌だわ。とても、透明で切なくて・・・優しい・・・」 歌声が揺らいで途切れがちの旋律は不器用でたどたどしく、これまで凜鈴の歌ってきた美しくきらめくような歌とはまるで違っていた。しかし、それを聴く全員の胸を揺さぶる何かがあった。 「さあ、わしも送ってもらおうかの」 凜鈴が散弧と僵尸を冥界へと送り終えると、土地神もまた、その姿を薄れさせ始めた。 「土地神さま・・・！」 「わしはもう、神である力は失っておるよ。ここにいるのは、ただの鬼じゃ。はるか昔に生を終えた、の」 晴れ晴れとした顔で、土地神は凜鈴に笑みを向けた。 「最後にこの土地を守らせてくれてありがとうよ、仙境の童子。これでわしは、心を残すことなく冥界へ赴けるというものじゃ」 「土地神さま・・・」 「おお、悲しむことなどないのじゃよ、優しい童子。僵尸と化したこの身の穢れは、閻魔王さまが払ってくださるじゃろう。そしていつかまた、この地に生きる命として生まれてくるはずじゃ。お前さんに貯まった濁業も、わしが一緒に持ってゆくよ。せめてもの礼代わりじゃ」 凜鈴の魂から濁業が薄れていく。これから日々徳を積むことで、いつか完全に消えるだろう。にっこりと笑い、土地神はふわりと浮き上がった。 「さあ、歌っておくれ。別れはひと時のものじゃ。いつか再び出会う日まで、達者でな・・・！」 凜鈴は涙を流しながら、精一杯の声を張り上げて歌った。満足げな笑みを残して土地神が冥界へと消えていったあとも、これまでのすべてを叩きつけるように全身で歌い続けた。 「おーい、みな、無事かね！」 歌声の中に、遠くから声が響いた。空の彼方から、白い馬が駆けてくる。馬上の男の心配そうな顔を認め、秋淋は胸が引き絞られるような心地に囚われた。 「遅くなってすまない。だが、要石は見つけたよ」 乗騎から降り、懐から手のひらほどの黒い石を取り出したのは、公孫準(こうそん・じゅん)だ。戦いの結末、そして土地神が消えたことを聞き、がっくりと肩を落としている。 「そうか・・・わたしは間に合わなかったのだね。本当にすまない」 「仕方ないわよ。どなたかにお願いして、新たな土地神を探してもらいましょ。その時にはまた要石は必要になるはずだし」 「そうですわね。それまでは轟汪様に、仮に治めていただけばよろしいですわ」 「えー、それって無理がない？ だってここの神さまじゃないでしょう？」 「後任が見つかるまでの間だけですのよ。神なのですから、そのくらいのことはやってのけてくださらないと」 「あー、よくわからないが、あまり無茶を言うものではないよ・・・」 この後のことを話している準たちを少し離れたところから見ながら、秋淋はある決意を固めた。 華山にある、とある屋敷の歩廊を凜鈴は足早に歩いていた。ともすれば走ってしまいそうになるのを我慢して、すれちがう女仙たちに呼び止められるのも振り切って進む。 どこからか、陽気な歌声が聞こえていた。調子をとる手拍子や、笛や太鼓の響きも耳に届く。凜鈴の足は更に速度を上げた。 開け放たれた大広間の扉の前へ飛び出して立ち止まると、中で歌い踊っていた女仙たちが揃って振り向いた。その中央にいた少女が、凜鈴の姿を認めて明るい笑顔を見せる。 「あ、凜鈴だ！ おかえり！」 「藍さま・・・！」 屈託のない笑みで迎えてくれた大好きな人に凜鈴は駆け寄った。中性的な少女の姿をしているため、ともすれば幼くも見えてしまうが、藍采和(らん・さいわ)は八仙の一人と数えられる神仙だ。凜鈴を見出し、童子としての姿を与えてくれた恩人でもある。 いつもは洞府を離れて放浪していることの多い藍采和が華山に戻っているという噂を聞いて、どうしても自分の体験を伝えたくて駆けつけたのだ。 「そう、大変だったね」 凜鈴が語る一連の事件のあらましを聞いて、少女はねぎらうように頷いた。 「でも、邪仙を送るなんてすごいよ、凜鈴。うん、アタシの見込んだとおりだったね！」 嬉しそうにくしゃくしゃと凜鈴の頭を撫でる。と、ふと手を止めて凜鈴の顔を覗き込んだ。 「ん？ ねぇ、凜鈴、少し背、伸びたんじゃない？」 「そう、でしょうか・・・僕にはよくわからないですけど」 童子は成長をしない。永遠に子供の姿のままだ。しかし、その心が大人へと近付くと、肉体もまた変化することがある。 「そっか、成長したんだね。偉い偉い」 もう一度凜鈴の頭を撫で、藍采和はにっこりして龍笛を取り出した。 「久しぶりに一緒に歌おっか。今のキミとなら、気持ちよく歌える気がするんだ！」 「はい！ 僕も藍さまと一緒に歌えるのは嬉しいです！」 散弧を送って以来、少し沈んでいた凜鈴は、久しぶりに心からの笑顔を浮かべる。 周囲にいた道士、童子たちも加わり、にぎやかな宴は翌朝まで続いた。 阮邑(げんゆう)の長の屋敷に立ち寄り、木立の陰で顔を出すか出すまいか悩んでいた慶は、突然腰にしがみつかれて体勢を崩した。 「慶おにいさん、みーつけた！」 いたずらっぽく笑うのは、前邑長の娘である李倩玉(り・せんぎょく)だ。 「元気にしていましたか？」 慶は微笑んで倩玉を抱きとめた。 「もっと早く様子を見に来るつもりだったのですが、いろいろありましてね。倩玉がつらい思いをしていないかと、心配していたのですよ」 「平気よ」 倩玉は抱きついたまま顔を上げて慶を見上げた。 「おじさまはとても良くしてくださるわ。おうちのお手伝いもしているのよ」 倩玉の父である邑長は戦の責任を問われて失脚して邑を追われ、弟に当る男が長を継いだ。娘の倩玉については、新しい長が引き取り屋敷で育てることになった。以前のような贅沢な暮らしではないが、保護者になった叔父夫婦は実子同然に倩玉を慈しんでいる。着ている服は良く手入れされ、頬もふっくらと健康的だ。 「おにいさんは、どうしてそんなにかなしそうなの？」 「え？」 「おにいさんの色、とっても澄んだきれいな緋色だったのに、きょうはちょっとだけ暗い蒼がまざってるわ。なにかかなしいことがあったの？」 心配する身のはずの自分が逆に五才の少女に心配されてしまい、慶は苦笑した。 「僕もまだまだですね・・・ええ、少し自信をなくしてしまうことがありましてね。でも、倩玉の顔を見たら頑張ろうという気が湧いてきました。大丈夫ですよ」 「ほんとう？」 「本当です」 いつまでも落ち込んでなどいられない。慶は、つぶらな瞳で見上げる倩玉に、真面目な顔で頷いた。多くの人を救うという目標のために、やるべきことはたくさんある。師の下で、もう一度基礎から鍛えなおすことも必要かもしれない。強くなれる近道などないのだから。 院子(にわ)の腰掛に並んで座り、楽しげに語る倩玉の話に相槌を打ちながら、慶は改めて感じた。 まだ至らないことばかりだけれど、この笑顔を守れたことは、きっとこの先ずっと、自分の誇りとなるだろう。 冬の訪れの早い山の上は、すっかり氷に覆われていた。数週間ぶりに明冰邑(めいひょうゆう)を訪れた愛蓮と秋淋は、陽にきらめく霜や氷柱を眺めながら長の家へと向かった。龍の棲む淵を汚すという罪を犯した娘を、邑の外へと連れ出す了解を得るためだった。 娘の罪については触れず、あくまでも娘が気に入ったから小間使いとして引き取りたいと申し出た愛蓮に、邑長と娘の両親はしばらく渋っていたが、本人の希望もあり、最終的には許可が下りた。 「あなたには仙骨がないから、仙境へは連れて行けないの。でも、私が人界で教えをうけた薬師の人がいるから、まずはそこへ行ってみる？」 「うーん、薬とかって、今はあんまり見たくないかな・・・」 「何を言っていますの、秋淋。この娘はあたくしの小間使いですわよ。あたくしが直々にビシビシ鍛えてさしあげますわ」 「え、愛蓮様、小間使いって、本気だったの？」 「あったり前ですわ」 話しながら三人で連れ立って山を下りる途中、空から来た白馬に呼び止められた。 「秋淋！ ここにいたのか！ 東の邑で僵尸が流行り病をもたらしたらしい、来てくれないか！」 焦ったように鹿蜀(ろくしょく)の玄星(げんせい)から身を乗り出しているのは準だ。差し伸べられた手を取り、秋淋は馬の背に乗った。 「あらあら、秋淋だけですの。あたくしにはお声がかかりませんのね」 愛蓮が、少し人の悪い笑みを浮かべて言う。しかし準は生真面目な顔で答えた。 「僵尸そのものはもう退治されたのだよ。残念ながら、愛蓮の活躍の場はないのでね」 相変わらずの鈍さに、愛蓮は肩をすくめた。 「まぁ、いいですわ。秋淋、こちらはあたくしにお任せなさいな」 「ええ、お願いね」 秋淋が頷くと、準に首筋を叩かれた玄星は再び空へと上がっていく。 「さあ、参りますわよ。まずは冥府ですわね。小蘭に散弧の亡骸を届けて差し上げなくては」 「ちょ、ちょっと待ってよ、冥府って何？！ あたしに死ねっての？！」 「気合と根性があれば、なんとかなりますわ」 「無茶言わないでよ！」 「オーッホッホッホ、問答無用ですわ！」 娘の抗議する声と愛蓮の高笑いが遠ざかっていく。準の後ろに乗った秋淋は、玄星を急がせる背中を眺めた。 土地神の祠に要石を収めた後、秋淋は準に想いを告げた。明冰邑の娘の行動に感化されたのかもしれない。また、自分だけは傷つかずにいようとすることに、ひどく罪悪感も感じていた。そしてなにより、どうやっても消すことの出来ない想いを押し殺し続けることは、もう限界だった。 ただ一言、短く告げられた言葉に、準は絶句した。受け入れてもらえない覚悟はしていた秋淋だったが、硬直したままの準に、じわりと涙が浮かぶのをこらえることは出来なかった。しかし準は慌てたように手を振った。 「い、いや、その・・・突然すぎて驚いただけで、その・・・」 しどろもどろに言葉を探す準に、秋淋は鼓動が高まるのを感じた。 「きみの事は好ましく思ってはいる。それは確かだよ。だが、それが女性としてなのか仲間としてなのか、改めて問われるとわたしにも良くわからない」 準は困ったように頭をかいた。 「考えてみるから、時間をくれないか。待たせてしまってすまないが、適当な答えで誤魔化したくはないのだよ」 そう言った顔は真摯で、秋淋はそれでもう充分報われたように感じた。 赤い尾をした白馬は、高く空を飛ぶ。秋淋が思いきって回した腕でぎゅっとしがみつくと、準は困ったように言った。 「そう力いっぱい掴まらなくとも平気だよ」 いつもと変わらない口調、だが何かが違う気がして秋淋は顔を上げた。 少しだけ緊張したように身体を硬くした準の、髪から覗く耳のふちがわずかに赤い。 「わたしも玄星も、きみを振り落としたりはしない。安心したまえ」 気をつけて聞けば、いつもより早口だ。 冬が過ぎれば春が訪れるように、ゆるやかに季節は巡り、大地も人も変わっていく。しかし、いま感じているこの幸せは、たとえ望む答えが得られなかったとしても、心の深いところで優しい光を灯し続けるだろう。 秋淋はそっと目を閉じ、広い背に頬を寄せた。 （Ｆｉｎ）
◇マスターより◇ あかね 拝
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