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ごく静かに、それは始まった。 誰も気付かない地の深く、張り巡らされた網の目が大地の猛威を呼び起こし、一つの邑がなすすべもなく押し流された。 だがそれは、始まりに過ぎないのだ。 「死者の帰る邑・・・ね」 高台から邑を見下ろし、紅秋淋(こう・しゅうりん)は呟いた。坤の地ではあまり見かけない浅黒い肌をしているが、小柄ながら柔らかい曲線を帯びた身体は女性らしい魅力に満ちている。黒い髪が吹きぬける風になびいて揺れた。 まだ日は中天をようやく回ったところ。漂う陰気の他は、よみがえる死者の形跡はない。土砂に埋もれた邑が広がっているだけだ。 この旺森邑(おうしんゆう)から一人の男が仙境へとやってきたのは、今朝早くだったという。嵩山(すうざん)のふもと、孫思貌(そん・しばく)の庵をたまたま訪ねた秋淋は、そこに運び込まれていた男の話を聞き、怪我と心労で弱っている邑人たちの手当てをかって出た。昇仙したばかりで仙人としての実力はまだまだだが、薬師をしていた経験から、煉丹の腕は孫真人のお墨付きをもらうほどになっている。 「いったい何が起こってるの・・・？」 ふりそそぐ陽の光の中にも、どこか寒々しい気配がある。夜ごと訪れるという死者の振りまく陰気のせいだ。痛ましげに優しい茶色の瞳を曇らせた秋淋を、忠麗麗(ちゅう・れいれい)が覗き込んだ。 「どうしたの？ 一人でぶつぶつ言って」 孫真人の弟子である麗麗は、師の使いで邑の様子を見に行ったあと庵へと戻ったが、秋淋の案内役として再び邑へとやってきていた。見た目が同じ年頃のせいか、その屈託のない性格のためか、まだ仙境になじみきれない秋淋にとっては構えることなく話せる多くはない友人の一人でもある。 「あ・・・ごめん、気にしないで。ただの独り言だから」 「そう？ ならいいけど。それで、邑へはどうやって入るの？」 麗麗は気にする様子もなく、あっさりと話題を変えた。 「旅の薬師を名乗るつもり。女の旅人は珍しいだろうけど、怪しむほどじゃないと思うから」 「えっ、正面から行くの？ 姿隠したりしないで？」 「当たり前じゃない」 なぜか驚く麗麗に、秋淋は笑った。 「具合の悪い人を診るのに、隠れてどうするのよ」 「そうだけど・・・影ながら人を助けて名も告げず去っていく、おとぎ話の仙人みたいなことが出来ると思ったのに・・・」 がっくりとうなだれた麗麗は、ふと顔を上げて空を見上げた。秋淋も視線を追って空を見ると、東のほうから白い筋雲が伸びてくるところだった。 「あれは、畢方(ひっぽう)？ 誰か来るみたいね」 青い鶴の霊獣は見る間に近付き、二人の前に静かに着地した。 「オーッホッホッホ！ ごきげんよう、お二方！」 鶴の背には、美しい女性が乗っていた。自信にあふれた表情で二人を見て、ふわりと優雅に降り立つ。 「奇遇ですわね、秋淋、麗麗。貴方がたも、どなたかの卜筮で？」 そう言いながら深緑の髪をかきあげたのは、周愛蓮(しゅう・あいれん)だった。豊満な肢体を包むのが落ち着いた色合いの服なのは、人界の邑へ出かけるために気を遣ったのだろう。仙境では、自身の美しさを引き立てる華やかな紅の衣装を好んでいる。 「卜筮？ 愛蓮様は、卜筮でここを知ったの？」 「ええ、そうですわ。あたくしの師が、陰気の偏りがひどい場所がある、などと言い出しましたの。放っておけば坤の全土を揺るがすようになる、なんて、それこそ陰気を発しそうな顔で言いますのよ。大げさな、と思いますけれど、万が一ということもございますでしょう？ そこであたくしが調べに参ったのですわ」 そこまで一気に喋ってから、愛蓮は首をかしげた。 「あら。あたくしは、ということは、貴方がたは卜筮ではなく別のことでここへいらしたんですの？」 愛蓮の疑問に、秋淋は手短に孫真人のところにいた男の話を聞かせた。 「何十人もの死者がよみがえったとおっしゃるのね。それは陰気も偏りますわ」 「ええ。生き残った人たちも、陰気の影響で弱っているそうなの。助けてあげないと」 「対処療法も必要でしょうけれど、元を断たなくては解決にはなりませんでしょう。邑人の手当ては貴方にお任せしますわ、秋淋」 ふふ、と不敵に笑い、愛蓮は挑戦的なまなざしで邑を見下ろした。 「あたくしがきっと原因を突き止めてご覧に入れますわ」 話の区切りが付いたと見た麗麗は、愛蓮をそっとつついた。 「ねえ、愛蓮。あなたの師匠って、韓湘子さまよね？」 「ええ、そうですわ。それがどうかしまして？」 「あの方の憂い顔って、どんな感じなの？ やっぱり素敵なのよね」 八仙と並び称される高位の神仙の一人である韓湘子(かん・しょうし)は、貴公子然とした姿と優しく甘い言葉で女仙たちに人気がある。麗麗も憧れを持っているのだろう。その夢見るような瞳に、愛蓮は呆れたようにため息をついた。 「憂い顔などという良いものではありませんでしたわ。おかしな期待はなさらないほうがよろしくてよ」 「えー、愛蓮ってばずいぶん冷めてるのね。いつも一緒に居るから、あの方の魅力に麻痺しちゃってるのかしら」 「そういうことにして下さっても構いませんわ」 愛蓮は小さく肩をすくめた。魅力という点では自分に勝るものはないと自負する愛蓮は、師には実力に対する敬意以上の感情は欠片もなかった。 「さて、そろそろ行動に移りましょうか。無駄に出来る時間は、おそらくそう多くはありませんわよ」 「そうね。私は邑で手当てをしながら、詳しい話を聞いてみるわ」 「あたくしは邑の周囲を調べてみますわ。死者が夜にしか来ないというのなら、昼の間の隠れ家のようなものが近くにあるかもしれませんし」 「えっと、じゃああたしは・・・」 二人の顔を交互に見ながら困ったように口ごもる麗麗に、秋淋は助け舟を出した。 「女二人の行商だと怪しまれそうだから、愛蓮様のほうをお手伝いしてあげて」 「うん、わかった」 「では参りますわよ。彩虹(さいこう)、貴方はここでお待ちなさい」 愛蓮の言葉に、霊獣は頷くようにしてからおとなしくうずくまる。 二人が連れ立って裏山へ向かうのを見て、秋淋は背に負った薬箱をゆすり上げ、ゆっくりと邑へ通じる道に下りていった。 旺森邑の裏山は、高くはないが広い裾野を持つ豊かな山だ。邑の名も、この深い森から来ている。邑から山へ分け入ったところには、ひときわ立派な大木があった。邑の人々の信仰を集める霊木だった。 大人が四人がかりで抱えるほどの幹と、空高くとどく梢。四季を通じて緑が絶えることのない霊木は、守り神として長く邑を見守ってきた。邑人たちも頻繁に訪れては周囲を掃き清め、供え物をしては霊木の加護を願っているのだろう。大きく浮き上がった根の間には供物台が置かれ、素朴な花器に活られた花はまだみずみずしかった。 その霊木の根元に、一人の子供がいた。まだ十にも満たない姿の、いとけない幼さの少年だ。日は傾きかけ、深い森の奥はそろそろ闇が迫りつつあった。 「うっ・・・ぐすっ・・・」 時折もれる泣き声からは、捨てられた子供にも見える。だが着ているものは上等でよく手れされていた。霊木の周囲を何かを探すように歩き回っている。 するとすぐ側の茂みの中から、男がひょいと顔を出した。びくりと身をすくませてから、少年は男の顔を認めてホッと力を抜いた。 「準さん・・・」 「やあ、待たせたかな、蒿麒」 名を呼ばれ、朗蒿麒(ろう・こうき)はごしごしと目元をこすり、男の側へと走り寄った。 「なにか見つかりましたか、準さん」 「あいにく、なにも」 公孫準(こうそん・じゅん)は首を横に振った。 「周囲に異常はなかったよ。死人たちも、ここには来ていないようだね」 「そうでしたか・・・」 蒿麒はがっかりしたようにうつむいた。 仙境へと拾い上げてくれた南斗星君に少しでも恩返しがしたいと、孫真人の伝言を携えて恒山(こうざん)へとやってきた準に頼み込んで異変のあった邑へ来た蒿麒は、裏山の霊木に気付き、そこへ降り立った。 すると、霊木は見てすぐにわかるほど気の流れがゆがんでいたのだ。何が起きているのか知るために、蒿麒は霊木を、準は周囲をと手分けして調べていたのだが。 「ぼくには、この霊木が最初からこうだったとはおもえないんです。でも・・・よくわからなくて・・・」 「うーむ、邑人の手入れが行き届いていないわけでもないようだ。わたしにも見当が付かんね」 「あら貴方がたはおわかりになりませんの？ 情けないですわね」 そこへ現れたのは、愛蓮と麗麗の二人連れだった。 「あたなにはおわかりになると？」 「オーッホッホッホッ、当然ですわ。もう、ここに立っているだけで酔いそうですのよ。この霊木は、暴走していますわ」 「暴走・・・？」 「ええ。あたくしの気が引きずられてしまいそうなくらい。力をもてあまして土を蝕んでいますわ」 気分が悪そうに眉宇をひそめ、愛蓮は霊木を見上げた。仙境生まれで木の属性を持つ愛蓮は、霊木の放つ気の影響を受けやすい。強いだけでなく、どこかゆがんだ気は、自然に起こりえるものではなかった。 「そ、それって、土砂崩れをおこしたのは、この霊木ってことですか・・・？」 知らない女仙二人に気後れしていた蒿麒が、おずおずと口を開く。麗麗と準がハッとして愛蓮を見ると、蓮花の香気から生まれた女仙は頷いた。 「土を押さえ均衡を保つはずの根が、力を持ちすぎたが故の災害・・・そう考えられますわね。とはいえ、そんなことが自然に起こるはずもございませんわ」 愛蓮は辺りを見回して蒿麒にたずねた。 「ここでなにか変わったことがなかったか、見ていた鳥などはおりませんの？」 「え・・・？」 「細かいことはわからなくても、見かけない人がいたですとか、この辺りにはない草が生えたですとか、童子なら鳥や獣とその程度のお話は出来ますでしょう？」 「あ・・・」 愛蓮の誤解に気付き、蒿麒は小さな身体をますます小さくした。 「ごめんなさい・・・ぼく、道士です。鳥さんたちとは、おはなしできません・・・」 消え入りそうな声に、愛蓮は目を丸くした。 「まぁ、ずいぶんと小さな道士さまもいたものですわね」 「ごめんなさい・・・」 頭を下げる蒿麒の肩を叩き、準が言った。 「謝る必要はないさ。さて、気の暴走というのは、どうすれば治まるものなのかな。相克で抑えるだけでいいならば、わたしが試みてもいいがね」 五行の道士である準の属性は金行。木行を克する力を持っている。だが愛蓮はかぶりを振った。 「そう単純なことではございませんわ。きっかけだけでの暴走であればそれですむかもしれませんけれど、持続する何か・・・呪いのようなものであった場合に、かえって均衡を崩してしまったらどうなさるおつもりですの」 「ふむ。ではどうするね？」 「仕方ございませんわね。あたくしが霊木の気の流れに同調して、ゆがみの根を探りに参りますわ」 「ええっ、危ないわよ」 驚いたように麗麗が愛蓮の腕をつかんだ。 「ここにいるだけで引きずられそうだって言ってたじゃない。同調なんかしたらどうなるか・・・」 「あたくしの自我が、たかが霊木ごときに押しつぶされるとでもおっしゃるの？」 「そうじゃないけど」 「ああ、それなら」 不安そうな麗麗の後ろで、準が声を上げた。 「蒿麒、きみは水行の術が使えるだろう。愛蓮の手伝いをしてやったらどうかね。水行で相生されれば、愛蓮もずいぶん楽になるはずだよ」 「えと・・・あの・・・・・・はい」 蒿麒はおどおどと視線を揺らし、口ごもったあと、ようやく頷いた。 「土砂崩れの原因究明はそれでいいとして、残るは帰ってくる死者の問題をどうするかだな」 「召鬼の術者は連れてこなかったの？ 恒山に行ったんでしょう？」 麗麗が不思議そうな顔をした。 「探鬼の術があれば、見つけるのも簡単だと思うんだけど」 「あいにく腕のある術者は出払っていてね。後でもう一度行ってこようと思っていたところだ」 「じゃあ、今から行って来ましょうよ。玄星で来てるんでしょ？ あたし、ここでは役に立ちそうにないし。嵩山で降ろしてくれれば、あっちでも見繕ってくるから」 「嵩山でって、恒山とは逆方向じゃないか・・・」 やれやれと嘆息しながら、準は離れた場所に待たせていた乗騎の元へ歩き出した。麗麗が後を追うと、愛蓮は霊木に歩み寄って木肌にそっと手を触れた。 「参りますわよ。準備はよろしくて？」 「は、はい」 かすれた声で頷いて、蒿麒は震える手をぎゅっと拳に握った。 ゆらりと愛蓮の髪が浮かび上がる。渦巻く気の流れが彼女を飲み込んだ。 邑へ入った秋淋は、すぐに視線を感じた。警戒するようなそれは予想していたことでもあり、平静を保ったまま邑の中央の広場まで足を進める。 「あんた、どこから来なさった」 やつれた顔の中年の男が、値踏みするような目で見ながら言った。 「ここからずっと南の、斉徳邑(せいとくゆう)から。普段はそっちのほうで商売してて、気まぐれで足を伸ばしただけだから、この辺は初めてなの。ずいぶん大変な目に遭ったみたいね。土砂崩れ？」 興味本位と取られないよう気を使いながら話しかける。その甲斐あってか、男は少しだけ警戒を解いたようだった。 「ああ、ひどいもんだ。死人も多かったし、まだ怪我してるやつもいる。・・・あんた、薬売りかい？」 「薬も売るし、治療もするよ。いちおう、薬師なの」 「それは助かる。見てやってくれるか」 「ええ」 男に案内され、秋淋は邑長の家へ通された。土砂崩れの被害を免れた建物の中で、最も広くて丈夫だということで、邑人の生き残りはここへ集められているのだという。 「他に無事だった家もあるみたいなのに、どうして全員が集められているの？」 一通りの治療を終えた秋淋は、さりげなさを装って尋ねてみた。男はずいぶん迷ったようだったが、重ねて問うとぽつりぽつりと事情を話し出した。 男が語る話は、孫真人の庵で聞いたものと一致していた。 「まあ、信じられんだろうがな」 男は最後に、自嘲するかのように付け足した。 「そんなことない。確かに不思議な話だけど、死者に長く触れれば陰気が増して生気を失うのは当然だし、それが続けば死んでしまってもおかしくない。早く手を打たないと・・・」 真剣な顔で考え込む秋淋に、男は嬉しげに表情を和らげた。 「ありがとうよ。仙人さまに助けを求めてくると言って出て行った馬鹿もいるが、これで滅ぶのも天命というものなんだろう。悪いことは言わん、夜になる前に邑を出てくれ」 「そうはいかないよ。まだ数日は様子を見ないといけない人もいるもの。途中で投げ出すつもりはないよ」 きっぱりと言い切る秋淋に、男は面食らったように目を見開いた。 「・・・あんた、変わってるな」 「そうかな」 「変わってるよ。・・・まぁ、この間の薬売りも変わったやつだったし、行商するような人間はそういうもんなのかもな」 何かを思い出したように付け足した男の言葉に、秋淋は首をかしげた。 「この邑に最近、薬売りが来たの？」 「あ、ああ。ひと月くらい前かな。あんたも来るときに見たように、この邑は近くに他の邑がないからな、旅商人なんていうのは珍しくてよく覚えてる。使用人を一人連れた、えらく愛想のないやつだったよ」 男は少し顔をしかめた。 「あんたみたいな別嬪さんじゃなくて、おっかない感じの大男さ。連れてた使用人はひどく顔色が悪い上に一言も喋らないし、正直気味が悪かったよ。薬の効果も疑わしい気がしたけど、使ってみりゃ良く効いたから、けっこうの人数が買ったんじゃないかね。肥料なんかも扱ってて、おかげで作物もよく育ったのに、この有様だ」 「その肥料、まだ余ってない？ 薬に関わることなら、私も興味があるの」 男は、すぐに持ってくると請け負った。 霊木の気に集中していた愛蓮は、遠くから聞こえた悲鳴にはっとした。 「あれは・・・邑のほうですわね！」 気付けば、すっかり陽が落ちて夜闇が周囲を覆っている。死者が新たな犠牲者を求めて邑へ来たのだろう。愛蓮はすぐさま身を翻した。 「あ、あの、まってください、ぼくも・・・おいていかないで・・・！」 蒿麒も慌てて後を追った。 邑では、一人の男を僵尸(きょうし／死者の魂を宿した死体のこと)の群れが取り囲んでいた。五十体を越えるほどの数に迫られ、腰を抜かした男をかばうように秋淋が駆け込んできた。 「あ、あんた、俺はいいから逃げろ！」 「そういうわけにはいかないよ、私が頼んだせいなんだから・・・！」 明日でいいと言ったにもかかわらず、男はすぐ近くの小屋にあるから、と秋淋の頼んだ肥料を取りに出たところで僵尸と出くわしてしまったのだ。仙術はまだほんの基礎しか学んでいない秋淋に対抗する手段などなかったが、見ないふりは出来なかった。 決して早くない動きが、むしろおぞましさを増している。近付いてくる僵尸たちを、秋淋は唇をかみしめて睨みつけた。 先頭の僵尸がいましも二人に触れようとしたとき、群れの一角が不意に崩れた。 背に木の矢を受け、どうと倒れた僵尸の向こうから現れたのは愛蓮だ。 「愛蓮様！」 「ここはあたくしにお任せなさい。貴方はその方を安全な場所へお連れして。・・・貴方もですわよ、蒿麒」 「でも、お一人じゃ・・・」 戸惑う秋淋に、恐ろしい光景にがたがたと震えている蒿麒を押しやる。 「僵尸がここにいるので全部とは限りませんのよ。他の邑人たちが襲われるかもしれないですわ。その時、貴方一人では守れないのではございませんの？」 もう一度、愛蓮は蒿麒の肩を強く押した。 「あたくしは大丈夫ですわ。さあ、早く！」 秋淋は少し迷ってから頷き、男に手を貸して立ち上がらせた。 「わかったわ。行きましょう・・・きみも手伝って」 「は、はい・・・」 声をかけられた蒿麒は、一度だけ愛蓮のほうを振り向き、彼女が頷くのを見てから駆け出した。それを追おうと動いた僵尸の一体が、雷に打たれて倒れ伏す。 「貴方がたのお相手は、あたくしがいたしますわ」 妖艶な笑みを浮かべた愛蓮の手には、いつの間にか一本の鞭が握られていた。 「金鞭の威力、存分に味わわせて差し上げますわ。遠慮なく、かかっておいでなさいな！」 振るわれた鞭から稲妻がほとばしる。僵尸がまとめて数体、なぎ払われた。 （こわいよ・・・もう、お家に帰りたい・・・） 秋淋のあとを、蒿麒は泣きそうになりながら走っていた。恐ろしくて恐ろしくて、今にも膝が崩れ落ちそうだった。それでも足を止めたらもっと恐ろしい目にあう気がして、ひたすら前だけを見て走り続けた。 そのせいで、横合いから出てきた僵尸への反応が遅れた。 「やだぁ・・・！」 掴みかかってくる僵尸を無我夢中でよける。その拍子に足がもつれ、地面に倒れてしまった。気付いた秋淋が振り返って手を伸ばすが、間に合わない。蒿麒はぎゅっと目をつぶった。 「危ないっ」 そこへ、声と共に火弾が飛来した。顔面ではじけた火のつぶてに、僵尸はのけぞって蒿麒から離れた。 「今のうちです、早く逃げて下さい！」 言いながら立て続けに打ち込まれる火弾に、秋淋は男をうながして駆け去った。 「間に合ってよかった。大丈夫ですか」 一陣の風が吹いたかと思うと、へたりこんだ蒿麒の隣に少年が立っていた。狐の耳と尻尾のある愛らしい姿で、橙紅慶(とうこう・けい)は、にこりと笑った。 「師匠に話を聞いてすぐ来たんですけどね。思ったより時間がかかりました。でも、終わってなかったのでほっとしましたよ。ああ、立てますか？」 差し伸べられた慶の手を取り、蒿麒は立ち上がった。 「あの・・・ありがとうございます」 ぺこりと頭を下げた蒿麒は、すぐにあっと声を上げた。 「あの、愛蓮さんが、ひとりでたたかってるんです・・・！ すっごくたくさん僵尸がいて、ぼくたちを逃がすのにひとりで残られて、それで・・・」 「なんですって！」 慶は蒿麒の肩をつかんで揺さぶった。 「それはいったいどこですか！」 「あっち・・・です」 指差す方向を確かめて、慶は蒿麒を見た。いかにもか弱い子供の蒿麒をここに置いていってしまってよいものか。悩んでいると、秋淋が駆け戻ってきた。 「よかった、二人とも無事ね」 「秋淋さん！ さっきの男性は？」 「すぐそこが邑長の家なの。戸締りも頑丈にしているから、そこにこもっていれば大丈夫。他の邑人たちもみんな一緒よ。さ、私たちも早く行きましょう」 「いえ、僕は愛蓮さんを助けに行って来ます。女性一人を戦わせるなど出来ませんよ」 女性にいいところを見せる絶好の機会ですしね。慶は心の中でそう付け加え、足元の風火輪を起動した。地面から乾いた土が舞い上がる。 「お二人は邑人たちを守ってあげて下さい・・・！」 声だけを残し、慶は滑るように道の向こうへ消えた。 愛蓮の金鞭のうなりは休むことなく、一体、また一体と周りを取り囲む僵尸を打ち倒していく。愛蓮の持つ霹靂娘々(へきれきにゃんにゃん)の異名は、雷鳴と共に戦うこの姿から来ていた。 騒ぎを聞きつけたのか、新たに十数体が現れる。 「オーッホッホッホ！ あたくしにかなうとでもお思いですの？ 数を増やしても無駄なこと。このまま殲滅して差し上げますわ！」 力量の差は歴然だったが、四方八方から迫る僵尸たちに押され、ひらめかせた鞭が、一体の僵尸の腕へと絡みついてしまう。背後から伸びてきた僵尸の手に気付くのが、鞭の先に視線が行った、ほんの一瞬のぶんだけ遅れた。 「生意気ですわ！」 引き戻した鞭を振るうのは間に合わず、身体を無理やりひねり、鞭の柄を叩きつける。痛みを感じない僵尸は、わずかに揺らいだだけで再び手を伸ばしてきた。 「伏せて下さいっ」 そこへ飛び込んできたのは、風火輪で加速を付けた慶だ。少年らしい細身ながら、鍛えた体の全力での体当たりに、さすがの僵尸も吹き飛ばされて地面に転がった。 「ご無事でしたか、愛蓮さん」 慶は倒した相手を踏み台に宙を舞い、ぴたりと愛蓮の隣に降り立った。 「助太刀しますよ」 「あたくし一人で問題ありませんわ。邪魔をしないでいただけませんこと？」 ぴしゃりと言って、愛蓮は金鞭を一振りした。激しい雷が広がり、また数体の僵尸が動きを止めた。 「さすがは霹靂娘々、素晴らしい・・・ですがこの数では、いちいち倒していたら時間がかかりすぎますよ」 慶の黄緑の瞳が、愛蓮の起こす雷を映して金に光った。両手を広げて天に向かって叫ぶ。 「我、火行を招いて雨と為す！」 刹那、真昼のような明るさが辺りを覆った。炎の雨が、僵尸に降り注ぐ。一気に数十体が炎に巻かれ、崩れ落ちた。 「ほら、ずいぶんすっきりしたでしょう？」 さすがに少し肩で息をして、慶が笑う。愛蓮はつん、と顔をそらした。 「まだ終わったわけではありませんわ」 言いながら、金鞭を一閃する。空気を裂く鋭い音がして、慶の後ろに近付いていた僵尸を打ち据えた。 「それもそうですね。では、もう一働きと参りましょうか」 慶は楽しげにそう言うと、風火輪で僵尸の間を駆け抜けた。すれ違いざまに五行の術で呼び出した火の矢を打ち込む。素早く移動しつつの攻撃で相手を翻弄するのが、慶の得意とする戦法だった。 からめとるような愛蓮の雷と、決して狙いを外さない慶の火の矢は、瞬く間に僵尸たちの数を減らしていった。 準と麗麗が召鬼の道士を連れて戻ってきたのは、夜も更けた頃だった。そのときにはすでに愛蓮と慶の手によって、邑を襲った僵尸はすべて地に還っていた。 肉体を失い魂魄のみとなった鬼を召鬼の道士たちは冥界へと導き、閻魔王からの依頼は完遂された。 「衰弱のひどい人もいるけど、陰気が収まれば自然と良くなると思う」 邑人たちを診た秋淋の報告に、一同はほっと胸をなでおろした。 「だけど、どうして死者のひとたちは、あんなにたくさん帰ってきたんでしょう・・・ぼく、気になります」 蒿麒が小さく呟いた。恐ろしい僵尸の存在も、消えてしまった今はどこか哀れに感じる。霊木にもたれながら準も頷いた。 「突然の災害で死んだ人が鬼になるのは、わからないでもない。未練もあるだろうからね。だが、すべてが僵尸になったとなると、何者かの介入を感じずにいられないな」 「黒幕がいるかもしれないってことですね」 腕組みをして聞いていた慶は、少しばかり弾む心を抑えて言った。彼は可愛らしい外見とは裏腹に、戦いを好む性質がある。それは師である康厳華の影響以上に、本人の資質だろう。 「霊木の暴走も、自然に起きたものとはあたくしには思えませんのよ」 愛蓮が、霊木の気のゆがみの感覚を思い出して顔をしかめる。同調した気の流れから読み取れたのは、異常なまでに活発化した生育欲。変化はごく最近、およそひと月ほど前から始まっている。 「これですべてが解決、とは言いがたいようですわ」 「でも、まずはいったん帰らないとね。みんな疲れてるし、師匠に報告とかもしなくちゃでしょ？」 麗麗が大きく伸びをして言い、一同はさまざまな推測を話し合いながら邑を後にした。 霊獣に乗り空へ上がると、秋淋は旺森邑を振り返った。ひととおりの治療を終えて借りていた部屋から出たとき、男が声をかけてきたことを思い出す。 「あんた・・・仙人なのか？」 男は真剣な目でそう言った。 仙人の存在は、あまりおおっぴらにしてはいけない。師からはそう言われている。だが、こういうときにどうすればいいか、まだ教えを受けていなかった。口ごもる秋淋に、男は慌てたように手を振った。 「いや、別にだからどうこうしようなんてことは、これっぽっちも思っちゃいねえよ。誰にも何も喋っちゃいねぇし、ただ礼が言いたかっただけだ。あのときに来てくれた女の人も子供も、あんたのお仲間だろ？」 男は深く頭を下げた。 「あんたたちが来てくれなかったら、きっと俺たちは全員、化け物になってた。・・・本当にありがとう」 きちんと返事が出来たかどうか、秋淋には自信がなかった。 だが、誰かを救うことが出来たのだという実感が、胸をほんのり暖かくしていた。 はるかな空の高みから地上を見下ろすと、緩やかな地形の変化が良く見えた。 「あの邑、辺鄙なところにありますけど、地相的にはかなり重要な位置ですね」 のんびりと景色を眺めていた慶が、眼下を流れる川を指差した。 「ほら、邑を流れていたあの川、上流からの勢いを弱める分水の役目をしてますよ。今回の土砂崩れで少し川幅が狭まってますから、もし上流で大雨が降ると、ちょっと危険かもしれないですね」 「ああ、本当だ」 準は首を伸ばして下を覗き込んだ。 「あの川が埋まって流れなくなっていたら、そのぶんの水がすべてもう一つの川へ流れ込んでいたところだ」 「そうならなくて、よかったです」 鹿蜀に準と同乗していた蒿麒が嬉しげに言って、ぐるりを見渡す。最初は怖かった乗騎にも慣れ、風景を楽しむ余裕も出てきていた。 「あれ・・・あの山も、くずれちゃったんでしょうか」 あちこちを見ていた蒿麒が進行方向に見つけたのは、山腹がえぐれたように無くなっている山だった。 「あれは鉱山よ。確か金が出るって聞いた気がするわ」 「金！ 素敵ですわね。ですけれど、あのように闇雲に山を切り崩しては、それこそ土砂崩れがおきますわよ」 愛蓮は何気なく乗騎をその山へ寄せた。小さく、立ち働く人々の姿が見える。 その時、ふもとの平原で土煙が上がった。目を凝らすと、揃いの甲(よろい)を身に付けて剣を手にした二つの集団が激突していた。 「戦争？ また陰気が増えてしまうじゃない」 その様子を見て、秋淋は滅入ったようにため息をついた。 「止めたほうがいいのかな」 旺森邑から少しは離れたとはいえ、まださっきの川の流れが続く場所だ。僵尸の残した陰気が消える前に死者が出れば、陰気が増幅されかねない。 「もう、帰りましょう。ぼく、こわいです・・・」 下で起きている争いも、いずれ湧き起こるだろう陰気も、どちらも恐ろしくて、蒿麒は震えて鹿蜀のたてがみに顔をうずめる。準がなだめるようにその背を撫でながら言った。 「小競り合い程度ですめば問題はないわけだし、この場で介入することもないんじゃないかな」 「あたしもそう思うわ。少し様子を見てもいいんじゃない？」 準と麗麗の言葉に一同は納得し、それぞれの洞府へと帰るべく進路をとった。 (第弐話へ続く)
次回選択肢 Ｇ１ 旺森邑に起きたことを調べる あかね 拝
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